3 代々木忠(2018)『生きる哲学としてのセックス』

1.あらすじ

 

どうしたらオーガズムに至るのか?セックスで真にイケるのか?詳細は本文に譲るとして、いちばん大きなファクターは「感情」である。いきなりそう言われても、にわかに信じられないかもしれない。感情とは言うなれば「心」であり、オーガズムは「体」の話ではないのかと......。(p.4)

 代々木(2018)は、日本のAV監督である。女性の真にイク姿を撮影することにこだわり、その理想を達成すべく「体験」から「考える」ことで、それを実現してきた。その代々木だからこそ語ることができる、「本当のセックス」「いいセックス」についてここでは記述されている。

2.感想

「相手の体をつかったオナニー」をしていた。

 代々木は、「オナニー」は、「「妄想」と「性器への刺激」(p.71)」と断言する一方で、「セックス」については次のように述べる。

セックスは、お互いの気持ちが向きわないとセックスにならない。必要なのは目の前にいる相手に対する感情であり、妄想は不要。つまり、セックスで使われるのは「性器への刺激」と「相手への気持ち」ということになる。 (p.71)

 つまり、両者は目的意識の段階が異なるのである。目的意識が異なるというと、「性器への刺激」がセックスでは削ぎ落とされることになる。しかし、そうではない。しかし、それだけではない。というところがオナニーとセックスの違うところである。これは「相手の体をつかったオナニー」(目的意識はオナニーをする時と同じセックス)「本当のセックス」「いいセックス」にも言えることである。

 前者は、物理的な刺激による快感を求める。後者は精神的な充実を共に創ろうとする。精神的な充実を共に創る過程におまけとして物理的な快感が付随するというのが後者である。

 私の今までしてきたセックスはどうだったか。振り返ってみると、前者が多かったように思う。「物理的な快感を求める」ことに目的を置いたそれは、ギブアンドテイクの世界で行われる。与えても見返りがないと、不安になったり、一緒にことを成し遂げても悦びの共有がない。「なんで自分はこんなにしているのに、相手は自分を気持ちよくしてくれないんだろう」ということになる。そうは言っても、「与える行為」をしている時に脳裏に浮かぶのは、その先の自分の快感だった。要は、相手を見ているようで自分を見ていた。相手と目を合わせることも、相手の方に顔と胸が自然と近づくことも、本当の自分を知られるような気がして怖くて、無意識的に避けていたのかもしれない。それらをしていた時は「こうしたら喜ぶ」という思考の先の行動だった。知識や思考は置いといて、目の前の相手に集中する。簡単そうで難しい、知っていそうで知らなかったセックスについての知識を、この本を読んで自覚することができてよかった。

「本当のセックス」「いいセックス」がしたい。

 

本当のオーガズムを経験するには、性器への刺激だけではなく、「会話」と「目合」と「明け渡し」が必要なのである。(p.22)

 代々木は、「性器への刺激」に加えて、三つのことがセックスの際に重要であると述べている。特に、二つ目の「目合」は、著の中でも受容性が繰り返し主張されている。思考を落とし、相手の目を見て感情を読み取ろうとする、伝えようとする。そして、思いを言葉にして交わしながら、相手にありのままの自分を明け渡し、相手そのものを受け入れていく。そのようなセックスが、「本当のセックス」であり、「いいセックス」であると代々木は述べる。

 私は頭で考えるセックスしかしてこなかったのかもしれない。嫌われないように、好かれるように、相手次第で、でもそれが自分勝手なセックス。それは双方向性を欠いたただの「体をつかったオナニー」で、それをしていても満たされることがなかった理由が今ようやくわかった気がする。

 世の中は知識や情報で溢れているから、テクニックや技術も練習さえすればすぐに手に入るだろう。でもそれでは、小手先のもので本当の意味で感じることができるセックスはできない。その知識が目の前の相手に集中する弊害となって現れる場合もあるぐらいだ。

 今、ここの「目の前の人」に集中する。「会話」と「目合」と「明け渡し」この三つを少しずつでいいから本当の意味で理解してできるようになっていきたい。

 

3.この話を読んで何をしたいと思ったか

  1. 心と体が通ったセックスをする。
  2. ありのままの自分に自信を持てるように日々を生きる。